信州における鋸工業発達史



 鋸は弁慶の七つ道具の一つに数えられ、古くは長野県内の古墳からも発見されています。

今日では、建築や山林伐採用の他「日曜大工」の愛称のもと、たいがいの家庭で必要品 として活用されています。

 信州における鋸製造業は江戸時代の後期に主として諏訪・上田・小諸の三地方に発達 し、中でも諏訪地方では今から194年前の文化二年(1805)江戸の鋸鍛治藤井甚九朗(中屋の系統)が高島藩の招きによって諏訪へ移り住み、藩の鋸鍛治職の取締まりとなり、鋸の製造を始めたのが今日の信州鋸の元祖といわれています。

 それより甚九朗は弟子の養成につとめ、年季のあけたものには「甚」または「九」の字を与えて独立開業させ、資力の乏しいものには資材を与えて親切に指導育成しました

 また甚九朗は嘉永年間には金山講をおこして、毎年一回神宮寺村(諏訪市神宮寺) に会を催し、諏訪神社に祈願し、且つお互いの実験を語り、良質の鋸の作り方を研究しあい、鋸の価格を定めるのを例としていました

 こうした甚九朗とその弟子たちによる鋸はその質の良さから販路も信州はもちろん、 全国にひろまり、明治12・3年頃には諏訪地方の鋸製造業者は580余戸、職工4200 余人に及びました。

 なお甚九朗がひろめたのは山林用大鋸が主で、大工用の両刃鋸・胴付鋸は明治初期に茅野市玉川の田中米吉が上田市鍛治町の中屋七左衛門より、同じく玉川の牛山猶勝が小諸市の田辺竹造により習得して帰り諏訪地方へひろまりました。

 諏訪地方における鋸生産が幕末から明治時代へかけて急速に盛んとなった原因としては 自然的条件人文適条件の二つが考えられます。


★自然的条件

 諏訪地方は海抜760m以上の高地で気温も低く、冬は特に寒気が厳しい。この低温 性が鋸の製造に適している。又、八ヶ岳の裾野にひろがる広い山麓地帯は赤松の生育に適し鋸の焼入れに必要な松炭を豊富に供給できる。さらに、山麓地帯の農家の耕地面積は狭少で、長い冬ごもりの生活を維持するためには、農家の冬季副業が必要である。従って 、鋸製造は農家の副業として最適であり、副業から専業化するに至りました。


★人文適条件

 信州鋸の開祖藤井甚九朗の努力とその継承者達が甚九朗の志を嗣ぎ、特に弟子の育成には年季定を設け、師弟一如の手打ち作業で、しかも焼入れにあたっては主人が必ず 担当し、鋸には自己の銘を刻みどこまでも責任を持ちました。この風を重んじる風は今日も うけつがれています。


●初期の徒弟制度(明治中期ごろまで)

(1)
弟子年季を本年季(満10年)・中年季(8年以上)・寄年季(5年以上)に区別し年季明けの節は本年季の者には鋸道具一切を与え、中年期の者にはふいごと金敷の二品を与え、寄弟子には一品も与ない。

(2)
年季中は親方の家に住み込み、その家のしきたりを良く守り、品行方正、正直に仕事に励むこと。

(3)
年季中不品行・不義理なものは他の同業者も決して雇いいれないこと。


 こうして信州鋸業者は手打ち製造をモットーに明治、大正、昭和と個々に鋸製造に打ち込み 、自家の製法を秘伝として他へ公聞せず、ひたすら良質のものの生産に励んできました。 従って信州鋸は一般に切れ味からみても他府県物にまさり、その種類も多く、商標(銘) によっては価格の高いのを問わず需要も多く、近年まで活況を維持してきました。しかし 第二次世界大戦後の我が国における産業経済の目覚しい進展と機械化導入の波は、既述 の年季定による徒弟制度の改廃(昭和26年労基法の養成規定ほか)とあいまって、 鋸の製造法にも順次機械の導入をもたらし、昭和30年代以降は手打ち鋸業者の大多数 がその製造工程に手打ちと一部機械併用へと変わってきました。なお、諏訪郡富士見町には 戦後、在来の信州鋸とは別に、全ての部門に機械化の工場が開設され、大量生産が 行われております。


今回は、茅野市玉川の鋸の全工程を手作業で作成できる「3代目米吉さん」と、富士見町の 「富士製鋸(株)」を取材してみました。

協力は茅野市鋸組合3代目米吉さん富士製鋸(株)によるものです。

 snap1  stino1

  茅野市鋸組合:お問い合わせ・ご連絡先一覧表

茅野市八ヶ岳総合博物館にも、製造工程・製品が展示されております。


長野県伝統的工芸品に戻る