貞享騒動の概要

今を去る約300年前の貞享三丙寅年(1686)、松本藩に起こった騒動である。
時の藩主は水野隼人正忠直公で、三勤交替で江戸詰のため留守であった。
松本藩の年貢は近隣の藩に比べて厳しかった。即ち70年程前に松本藩領から分かれた高遠領(西五千石)や、 諏訪領(東五千石)の村々は、その当時のまま籾1俵は米2斗5升挽であるのに、松本藩ではその3斗挽に引き上げられ、 水野氏もそれを受け継いで、農民は仕方なく3斗挽に耐えていた。近年不作が続いて困窮を極めていたのに、 この年の収納に当たっては、のぎ踏磨きと3斗4・5升挽を厳命してきた。このような過酷な年貢に苦しむのを見るに忍びず、 身を挺して農民を救おうと、多田加助を首領とする同士は、10月10日夜、中萱の権現の森(熊野神社)に集まって密議し、 両五千石並みの2斗5升挽の要求など五ヶ条の訴状を認め、14日郡奉行へ訴え出た。この企てが村々に伝わると、 農民達はこれに加勢しようと、蓑笠に身を固め、鍬を手に四方から城下へと押し寄せた。 この突然の大騒動に狼狽した家老達は、鎮圧するためいろいろな策を講じたが、農民は聞き入れず、日増しにその数は増加して万余に及んだという。

困惑した藩側は16日夜、郡奉行名で籾納は従来通り3斗挽でよく、のぎ踏磨きは無用、など願いを聞き届ける旨の覚書を組手代へ届けた。 これを知らされ説得された農民の大半は、村々へ引き上げた。しかし加助ら同士と百数十人の農民は、あくまで2斗5升挽の要求と、 家老の証文を求めて留まっていた。家老らは騒動の長引くのと、江戸表への直訴を怖れて18日に、2斗5升挽を聞き届ける旨の家老連判の覚書を出したので、 加助ら同士と留まっていた農民は、一応安堵して村々へ引き上げ騒動は鎮まった。

ところが、藩ではその後、村々へ先に渡した覚書を返上させ、一方江戸へは真相を秘して注進した上、 藩主の栽許を得て首謀者とその子弟を一斉に捕縛して上土の舎へ投獄した。そして数日後の11月22日、 安曇の者は勢高で、筑摩の者は、出川の刑場で処刑された。その刑は、磔8人、獄門20人という極刑で、 百姓一揆史上稀にみる多数であった。加助は最後柱の上から城をにらみ”2斗5升”を絶叫しつつ息絶えたと伝えられている。

長尾組組手代日記
(三郷村指定文化財)

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