手毬と言うと初老の女性のうちには、この言葉の懐かしい響きと共に幸せだった幼年時代を思い起こす方が少なくないであろう。


 赤や黄色、紫などの美しい五色の糸でからげた手毬は、昭和の初め頃までもてあそばれ、或いは、ひなの節句に飾られたりした物であったが、太平洋戦争後には、遊び道具としては、まったく姿を消してしまった。

 「手毬」が、全盛を誇ったのは、木綿綿の栽培が普及し、木綿糸が容易に得られるようになった、江戸時代中期以後のことで、松本藩士族の子女の間で作られたと伝えられるが、士族に限らず松本地方の一般家庭に広く愛玩されたといわれる。
                    
                    
ここで書く手まりの作り方は、「松本市立博物館」よりいただいた資料を元に古い作成をのせました。
                 
  芯に山蚕(やまこ)を入れ、音をするのを楽しみとし、周りは、弾みをよくするために、モスなどの毛類を固くまるめその上を薄く綿でくるみ、さらに周りを、さらにツナギと称する木綿いとでぐるぐる巻いた。 手まりを巻く糸は、上等な木綿糸ではなく機織のひの通らぬ、布にならない部分の、なるべく白い糸を集めてそれをつないだ。
当時の子供たちは、つなぎの多いほど沢山の毬,或いは大きな毬を作て貰えるので、学校から帰ってくると、一生懸命このつなぎをつないだと言う。
丸く形のできあがった毬の上に、二色か三色の木綿の色糸を針に通し、使用しても、麻の葉模様が一番丈夫なので、多くは麻の葉に、また、他にも二、三種の模様をかがって美しい手毬を作った。その作りかけの毬に、赤や紫の色糸が針についたままささって垂れているのが美しいと言われる。
ここでの手毬の製法は、薄いボール紙で二糎四方のサイコロのような箱をつくり、なかに小鈴を入れて芯にし、それを二握りくらいの布団綿で固く包み、しつけ糸で粗くからげてとめる。さらにその周りを、白い脱脂綿で薄く包み(装飾用)、白のしつけ糸で万遍なく固く丸くからげながら、直径七、八糎の球形に整える。(終戦直後は、この地糸にハブ糸を使ったが、光沢があって、模様が映えぬため、木綿のしつけ糸を使うようになったとのことである。)できあがった白い毬の上に、黄色などの目立たぬ糸で、模様の基本となる糸をかける。
玉の表面を割り付けるのであるが、この基本の糸のかけ方が最も難しく、これが正確にできないとできあがった模様が崩れるという。
当時は,玉を作るのも、この基本割付も、すべて手加減で行っておりそれが一分の狂いも無く整然とできるのは、熟練者の見事な仕事であったと思われる。
こうしてできあがった手毬は、振ると、冴えた鈴のような美しい音色が聞かれ、華麗な色彩は見る人の目を楽しませてくれる。