| 桑原山不断院正願寺 | |
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| 草創は明確ではないが、正願寺前身は、市内尾玉、通称「薬師堂墓地」地積が旧地と言われ、
永禄5年(1562年)に、岌往(ぎゅうおう)上人により中興開山されました。 岌往上人は伊勢に生まれ知恩院の空阿に師事、室町後期から、安土桃山時代にかけて、甲州、信州の数十ヶ寺を 創建、再興に尽くし、諏訪地方念仏信仰の基礎となり、以来寺門は栄えました。 23世宮沢説音は諏訪文出の生まれ、大正12年京都大本山百万偏知恩寺法主となり、僧位最高の大僧正に叙せられました。 説音語録に「心を健全にし、丈夫にすることは人間の能力を伸ばすことである。伸びの止まった人間は人の欠点 ばかり眺めて、さもしい心のみがつのってくる」「有形の品物を盗む泥棒もあるが、無形の恩義を無視する恩泥棒が 一番悪い」等幾多のお教えを残しました。 境内には河合曽良、小平道三、新田次郎等著名人の墓があります。 河合曽良は慶安2年(1649年)高野七兵の長男に生まれ、幼時、母の実家銭屋河西家で養育され、のち親類の 中州福島、岩波家の養子となりました。養父母の死により、伊勢長島、大智院に伯父秀精住職を頼ってそこで成人、 のち江戸に出て芭蕉の門に入りました。 蕉門の十哲となり「奥の細道」の旅に随行、虚弱な師を助けました。 宝永7年(1710年)5月22日旅先の壱岐島勝本で病没、墓には「春に我乞食やめても筑紫かな」の辞世の句 があります。遺品として「奥の細道に携行された「笈」愛用の「文台」「すずり箱」が寺に保存されています。 小平道三は武将の御用をつとめた商人であります。父は佐久望月の城主左ェ門信永で、父の貯えておいた金銀財宝 をたくさん持ち、無双の富貴者でしたが、信玄に甲府に連れていかれたり、高島城築城に財を持ち去られたりしました。 作家新田次郎は、諏訪市角間新田に生まれ、本名藤原寛人。 電気通信大学卒後中央気象台に入り、昭和41年退職、この間「強力伝」(植木賞)で文壇に登場、「聖職の碑」 「武田信玄」「八甲田山」等著作、昭和55年2月15日没。 境内新墓地に葬られ、故人の句、「春風や次郎の夢のまだつづく」が安山岩の自然石に刻まれています。 てい夫人も作家で「流れる星は生きている」などがあります。 寺宝に三代高島藩主忠晴の末女「円理院殿」供養の諏訪市指定文化財胴灯篭。小石川伝通院位産大僧正寄進の十六羅漢 二幅を所蔵しています。 |
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